視力と硝子体
ローマ帝国(ローマていこく、羅: Imperium Romanum、英: Roman Empire)は、オクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を戴いた紀元前27年からの古代ローマを指す。なお、エドワード・ギボンがローマ帝国衰亡史で示した東ローマ帝国滅亡年(1453年)を当記事では便宜上、ローマ帝国の消滅年としたが、ローマ帝国が東西に分裂した395年、西ローマ帝国が滅亡した476年を示す場合もある。詳細はローマ帝国の滅亡の項目を参照のこと。 おまとめローン 広義には、共和政ローマからの古代ローマも含む。また後世にいう「東ローマ帝国」も自称は単に「ローマ帝国」である。シルクロードの西の起点であり、中国の文献では大秦の名で呼ばれていた。 目次 [非表示]クレジットカード 比較 1 名称 2 変遷 3 帝政の開始 4 五賢帝の時代 5 混乱と分裂、キリスト教 6 帝国の分裂 6.1 西ローマ帝国 カードローン 比較 6.2 東ローマ帝国 7 ローマ帝国の継承国家 8 ローマ帝国の滅亡 9 歴代皇帝 10 脚注 11 関連項目 12 参考文献 エステサロン 13 外部リンク [編集] 名称 「ローマ帝国」はラテン語の「Imperium Romanum」の訳語である「Imperium」は元々ローマの「支配権(統治権)」という意味であり、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指す。従って日本語の「帝国」という文字から想像されるような皇帝が支配する国家という意味は無い。帝国には「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味もあり、その意味において共和政時代から古代ローマは「ローマ帝国」であった。しかしながら日本においては、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられている。[4]ヘッドハンティング 中世における「ローマ帝国」である東ローマ帝国や、ドイツの「神聖ローマ帝国」と区別するために、西ローマ帝国滅亡までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。 履歴書 [編集] 変遷 ローマ帝国版図の拡大 紀元前133年(赤)、紀元前44年(橙色)、14年(黄)、117年(緑)古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、上述の通り、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。だからいつの時点をもってローマ帝国が成立したか、それを定義づける事は不可能である。 資産運用 紀元前27年よりローマ帝国は共和政から元首政(帝政)へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。 4世紀のコンスタンティヌス1世のとき、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷し、同世紀末に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂した。 ただし、西ローマ滅亡後もコンスタンティノポリスの皇帝が名目上全ローマ帝国の皇帝とされており、東ローマ帝国では古代末期のローマ帝国の政治経済の体制が数百年にわたって継続されていた。 [編集] 帝政の開始 視力回復 青及び緑は帝国最大版図、青は後の東ローマ帝国の最大版図、赤線は東西分割線ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がテヴェレ川のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初はエトルリア人の王を擁いていたローマはこの異民族の王を追放して、貴族による共和政を布いた。共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、コンスル経験者などが在籍する元老院が圧倒的な権威を有しており国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。 都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍でイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。 「内乱の一世紀」と呼ばれた時代にルキウス・コルネリウス・スッラ及びガイウス・ユリウス・カエサルが絶対的な権限を有する終身独裁官に就任、元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を受けて、帝政が始まることとなった。 以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これを「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。 「カエサル」と「アウグストゥス」の称号。 「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。 「プリンケプス」(市民の中の第一人者)の称号。これは事実上の皇帝としての地位を指すものであった。 「最高神祇官」の職。 全属州総督の任命権。さらに、直轄領として、エジプトを直接支配する権限。 「護民官職権」を実際に護民官には就任していないにもかかわらず行使する権利。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。 これらに加え、皇帝たちは必要な場合執政官やケンソルなどの共和政上の公職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また歴代皇帝は死後に神格化されることも少なくなかった。 [編集] 五賢帝の時代 ローマ帝国の州(120年時点)アウグストゥスの後、帝位をめぐる曲折を経て、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。 のちに若干の理想化も含めた歴史の叙述によれば、彼らは生存中に秀材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内の流通と経済が盛んになった。 96年 - 98年 ネルウァ 後継者にトラヤヌスを指名した。 98年 - 117年 トラヤヌス 「至高の皇帝」。最大領土を現出。東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまでおよんだ。 117年 - 138年 ハドリアヌス 全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアのハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確立に努めた。 138年 - 161年 アントニヌス・ピウス 財政の健全化に努めた。 161年 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス 「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。 五賢帝の時代を過ぎると、各地で反乱が頻発するようになった。これに対処すべく、212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによってローマの都市国家的要素は全て消滅したが、反面、財産や教育といった面から見て、かつての基準を下回るローマ市民を大量に受け入れる事となり、原則的に権利の上では平等であったローマ市民権保有者の間での階層化を生む事となった。 [編集] 混乱と分裂、キリスト教 いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、反乱の増加に伴って、軍隊が強権を持ち皇帝の進退を左右した。約50年間に26人[5]が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。 パクス・ローマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。 四分割統治を表す像。1204年に第4回十字軍によって陥落したコンスタンティノポリスからヴェネツィアに持ち出されたもの284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首、つまり終身大統領のような存在であった皇帝を、オリエントのような専制君主にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、そうした軍団はしばしば皇帝に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。 ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して再び単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められた(380年)。